file-121 越後諸藩それぞれの北越戊辰戦争(前編)

  

迫る戦火、揺らぐ越後の諸藩

 新体制づくりを始める一方で、新政府軍は旧幕府側の諸藩の追討を始めました。慶応4年(1868)3月に、新政府軍が高田に到着。越後の先には倒すべき会津藩があります。越後各藩は、新政府側か旧幕府側か、立場をはっきりするよう求められます。

急転する運命。長岡城落城

会津藩の存在に翻弄される

田邊さん

「旧幕府側が奮闘しただけでなく、新政府軍トップの山縣有朋(やまがたありとも)が慎重で、洪水などもあり北越戊辰戦争は長引いたと言われています」/田邊さん

 新政府軍か旧幕府軍か――北越戊辰戦争では、同じ越後の中でも藩により方針が分かれました。その背景について、新潟県立歴史博物館学芸員の田邊幹(もとき)さんに伺いました。「全ての藩にとって、朝廷の敵にはなりたくないという考えが大前提です。その上で、新政権につくか、旧幕府側につくかの決断を迫られます。越後の藩は、外的要因と内的要因の二つから大いに悩んだと思われます」

 

 外的要因とは、地理的な要因です。越後は北東で会津藩に接していましたが、23万石とも28万石ともいわれる会津藩は大藩で旧幕府側の中心的存在。協力を求められれば、新発田10万石、村松3万石など、北部の藩は従わざるを得ない状況でした。さらに、幕末の越後には11の藩と幕府領、旗本領、会津藩や桑名藩・沼津藩・高崎藩の領地などが入り組んだ形で点在していました。桑名藩も会津藩と同じく旧幕府側の中心で、高田藩や長岡藩も譜代の家柄です。越後は全体として旧幕府寄りの勢力が強いといえますが、多くの藩にとって周囲の状況をうかがう必要があったといえます。そのような状況の中から新政府軍がやってくるのです。越後の中でもその藩がどこにあるのか、どの藩と境を接するのかなどが、藩の意思決定に大きな影響を与えました。内的要因は、藩主の出自(しゅつじ)や家柄、藩内で盛んな学問や思想などです。こうした様々な要因が複雑に絡み合い、「実は、藩も一枚岩ではなく、揺れ続けていたんです」。藩としては旧幕府側につきながら、藩内には尊王・新政府を支持する一派がいたり、同じ藩の藩士同士が敵味方に分かれて戦った藩もありました。
 初めて決断を迫られた慶応4年(1868)3月、高田藩は新政府軍への恭順を示しましたが、長岡藩は沈黙を守りました。ここからは、それぞれの藩の動きをたどります。

 

高田藩/叶わなかった戦争回避

高田城内絵図

いくつにも仕切られた曲輪(くるわ)は、往時の堅牢(けんろう)な城郭の姿をうかがわせる/「高田城内絵図」(榊原家所蔵・公益財団法人旧高田藩和親会管理)

 徳川幕府樹立に功績のある徳川四天王の一人、榊原康政(さかきばらやすまさ)を祖とする名門としての誇り。一方、天皇から与えられた錦の旗を掲げる新政府軍への恭順。他の多くの藩もそうであったように、高田藩も二つの思いに板挟みになり苦しみます。「鳥羽・伏見の戦い後、朝廷に対して徳川家の存続を願う『哀訴』と、15代将軍慶喜に対して朝廷に謝罪するように諭す『諌諍(かんそう)』(『哀訴諌諍』)を藩の行動論理として、高田藩は独自の周旋運動を行うなど戦争回避の立場をとっていました」と、上越市立歴史博物館学芸員の荒川将(まさし)さん。「実際に、徳川家存続を願う『哀訴書』を持ち、京都において、新政府側の公家や加賀前田藩などに働きかけ、ようやく慶応4年(1868)4月22日に受理されています」。これで少なくとも当面の衝突は回避されるはずでした。が、越後においては、新政府軍に、態度のあいまいさを厳しく追求され続け、「当時の通信事情では、京都からの知らせは3日間では届きません。高田城下を目指して進軍する新政府軍を説得する有効な手だてがない」まま、4月25日、高田藩はやむなく旧幕府軍の古屋佐久左衛門率いる古屋隊への攻撃を開始。この戦いによって、北越戊辰戦争は大きく動き出しました。そして、高田藩は新政府軍の先鋒として全ての激戦を戦うことになります。藩としての戦闘への参加は72回。長岡城奪還では、隊長の一人、榊原若狭(さかきばらわかさ)が戦死しています。

 

金谷山墓地

北越戊辰戦争で命を落とした高田藩士の墓、西郷隆盛の弟が合祀されている薩摩藩、長州藩の墓、また会津藩士の墓(写真)が点在/上越市金谷山

 上越市の市街地を一望できる金谷山には、高田藩士墓地があり、この戦争で戦死した藩士を慰霊する「戦没将士の塚」も建立されています。また、西郷隆盛の弟である西郷吉二郎が合祀(ごうし)されている薩摩藩士墓地と長州藩士墓地もあります。さらに、戊辰戦争後に高田藩に護送され、謹慎生活を送る中でこの地で亡くなった、会津藩士68人の墓地も建っています。

 

長岡藩/河井継之助(つぎのすけ)の構想

稲川さん

河井継之助についての著作も多数。「長岡の戦いは、藩士だけでなく女性や家族にも大変過酷なものでした」/稲川さん

 高田藩から越後に入った新政府軍の行く手を横断する信濃川は、ちょうど会津までの中間点。ここを越えなければ会津へ攻めていけません。その重要箇所は、態度をはっきりと示さない長岡藩の所領。新政府軍は二手に分かれ、戦いながら海岸沿いから柏崎に、山沿いからは小千谷に進み、長岡城に迫ってきました。
 河井継之助記念館館長の稲川明雄さんによれば、「長岡藩がどちらにつくかが北越戊辰戦争の勝敗を左右し、それは家老の河井継之助の判断にかかっていると言ってもいい状況でした」

 

河井継之助

司馬遼太郎のベストセラー「峠」の主人公として多くのファンを引き付ける河井継之助。生家跡には記念館が建つ。

 5月2日、小千谷の慈眼寺で継之助と新政府軍の岩村精一郎が会談。藩論を統一するまで進撃を待ってほしいという継之助の申し入れを岩村は拒絶し、この「小千谷談判」と呼ばれる会談は決裂しました。その後、長岡藩は、旧幕府側の会津・荘内など東北諸藩が結成していた奥羽列藩同盟に加盟。村上藩など越後の6藩も加盟し、ここに奥羽越列藩同盟が誕生しました。
「継之助は戦争をするつもりで会津と手を結んだわけではないと思います。なぜなら、加盟から1週間、長岡藩は動いていないのです。この空白の1週間がその証です。しかし、外交を遮断され、活路を求めて戦うしかなくなった、戦う以上は勝たねばならない。そういう思いで、継之助たちは5月10日、新政府軍が押さえていた榎峠(長岡市)に奇襲をかけました」
 榎峠を奪還した同盟軍は、もう一つの重要拠点、朝日山(小千谷市)へ向かい、登ってくる新政府軍を山頂から銃撃。同盟軍が優位を保ちながらも戦いは長引き、新政府軍は打開策として長岡城攻撃を決めました。5月19日早朝、濃霧の中、新政府軍は梅雨で増水した信濃川を渡り、一気に長岡城下へ。継之助は大型機関砲ガトリング砲で反撃を試みますが、主戦力を榎峠、朝日山に残してきたため数では圧倒的に劣勢。長岡城は新政府軍の手に落ちてしまいました。

 

 朝日山の山頂には、今も同盟軍が掘ったフランス式の塹壕(ざんごう)が残っています。そこからは越後平野を悠々と流れる信濃川が見え、「この峠を越えなければ長岡に入れなかった。北越戊辰戦争がどういうものだったかを実感できる場所だと思います」と、田邊さん。

 

 後編では長岡城奪還から北越戊辰戦争の終戦までをたどります。

 

※文中の日付は、旧暦で記載しています。

 


■ 取材協力
田邊幹さん/新潟県立歴史博物館 主任研究員
荒川将さん/上越市立歴史博物館 主任
稲川明雄さん/河井継之助記念館 館長


■ 参考資料
「新潟県の合戦」長岡・柏崎編/株式会社いき出版発行
「高田開府400年記念誌」/高田開府400年祭実行委員会発行


■ info
北越戊辰戦争についての企画展が開催されます。

「戊辰戦争150年」
戊辰戦争開戦から150年の節目に、戊辰戦争を東北・新潟の視点から紹介する企画展。
新潟県立歴史博物館/新潟県長岡市関原町1丁目字権現堂2247-2 TEL 0258-47-6130
【開催時間】平成30年7月14日(土)~8月26日(日)9:30~17:00(入館は16:30まで)
【休館日】毎週月曜日(祝日の場合は翌日)ただし8月13日は開館

戊辰戦争150年

「高田藩と戊辰戦争」
上越市立歴史博物館/新潟県上越市本城町7-7 TEL 025-524-3120
(旧・上越市立総合博物館 2018年7月21日(土)にリニューアルオープン)
【開催時間】平成30年10月6日(土)~12月2日(日)9:00~17:00
【休館日】毎週月曜日(祝日の場合は翌日、祝日の翌日)
※企画展以外にも戊辰戦争の常設展示あり

 

後編 → 越後諸藩それぞれの北越戊辰戦争(後編)
「激化する戦い。巻き込まれる諸藩」

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