file-114 豪農の頂点、千町歩地主の栄華をたどる(後編)

 

明治時代に巨大化した地主

 伊藤家と斉藤家は、明治6年(1873)の地租改正(ちそかいせい)をきっかけに巨大化していきました。明治の地租改正では、税を米ではなく、お金で納めることになったのですが、それまでお金での取引を経験したことがなかった農民の中にはうまく対応できず、土地を手放す者が増加。その結果、地主の元に土地が集まってきたのです。

博物館と寺になった地主の邸宅

沢海(そうみ)の伊藤家

伊藤家 全景

8800坪の敷地に、母屋・100畳の大広間棟・茶室など、明治の和風建築が並ぶ/北方文化博物館(伊藤家

 宝暦6年(1756)、沢海村(現・新潟市江南区)で初代が分家して独立。畑で染料になる藍を栽培し、藍の商いを皮切りに、倉庫業、金融業などで蓄財し、土地を購入していきました。伊藤家の土地集積の最盛期は明治半ば。明治17年(1884)からの9年間で一気に455町歩を得て、明治34年(1901)には1346町歩を保有する千町歩地主に成長しました。
 伊藤家には、「悪田を買い集め、美田にして小作に返すべし」という家訓があります。「小作人の収入や暮らしが安定してこそ地主の暮らしも成り立つ、つまり共存共栄の考え方。だから、ここでは小作人と地主の争いは少なかったんですよ」と、北方文化博物館館長の神田勝郎さん。
 

 

伊藤家 広間内観

最も格式ある座敷として年に数回のみ使用された、巨大な書院造りの大広間棟/北方文化博物館(伊藤家

伊藤家 広間

三間続きの茶の間は、当主が応接室として利用。いろりを囲んで多くの人が集った/北方文化博物館(伊藤家

 昭和21年(1946)の農地解放後、伊藤家邸宅はアメリカ軍による接収を免れ、博物館として新たな道を歩み始めました。明治15年(1882)から8年をかけて造られた、建坪1200坪、部屋数65の大邸宅は、明治の豪農の生活を伝える貴重な遺構として公開されています。
「こうして邸宅が当時の雰囲気をとどめたまま保存されているのは、7代目当主の先見の明によります。戦前から『社会構造が変われば地主制も変わる』と考えていた7代目は、古美術品を収集し、考古学者や郷土史家の協力を得て、博物館構想を練り、現実化していきました。その壮大な目的と計画性、行動力がアメリカの担当者を動かし、博物館構想が承認されたんです」。
 運命も伊藤家の味方をしました。この時のアメリカ側の担当者、ライト中尉は、7代目当主が留学していたペンシルバニア大学の後輩だったのです。話すうちにその事実がわかると、ふたりの会話は学友同士の和やかなものになり、やがて意気投合。ライト中尉は司令部に働きかけ、博物館設立の後押しをしました。
 

 

安田の斉藤家

斉藤家 全景

書院造りの洗練された館には、格天井や繊細に組まれた建具など凝った意匠がふんだんに/孝順寺(斉藤家)

斉藤家 池

静かで落ちついた雰囲気を醸し出す池泉回遊式庭園。事前に申し出れば庭園の散策もできる/孝順寺(斉藤家)

 阿賀野市保田の真宗大谷派、孝順寺。安田瓦を載せた大屋根は重厚な雰囲気を漂わせますが、一見して、お寺には見えません。それもそのはず、ここは、新潟県の5家目の千町歩地主、斉藤家の邸宅だったのです。
 斉藤家の祖先は、米沢から安田村(現・阿賀野市)に移り住み、その後、庄屋を務めるようになりました。明治30年(1897)に千町歩地主となり、大正、昭和時代には、村長や貴族院議員を輩出するなど、地域の人々の尊敬を集めるようになっていきました。
 この大正から昭和への時代、安田村も不景気の波に襲われていました。そこで、斉藤家は村民に仕事を供給するために邸宅建築工事を始めます。大工も職人も全て村民、材料の多くは所有する山から切り出した木材。地域の力を結集し、10年をかけて建築しました。その後、縁あって孝順寺が買い取ることになり、昭和25年(1950)に遷座。今日に至っています。
 天然の竹を時間をかけて四角く仕立てた四方竹(しほうちく)の柱、節のない杉の総柾(そうまさ)材を多く使い、床の間には紫檀や黒檀などの銘木を組み合わせています。立派なのは材料だけでなく、二条城にも用いられている格天井(ごうてんじょう)、菱ととんぼを組み合わせた障子の桟などの建築方法も見事です。当時のご当主の村民への思いと、それに応えた村の職人衆の技量の結晶と言えるでしょう。

 

千町歩地主が残したもの

 江戸時代から明治時代にかけて、新潟県で生まれた5家の千町歩地主は、地域の田畑を集積し、また他の市町村の田畑や山林をも所有。圧倒的な経済力で、存在感を示しました。その一方で、「お上のため」「小作人や村民のため」の行動も行っているのです。
 たとえば、幕府や藩からの要請により、多くの御用金を払っています。御用金とは、財政難に陥った幕府や藩が、利息をつけて返済する約束で、裕福な商人や農民に課した借用金です。利息は低く、また、返済が行われないこともあり、寄付金のようにとらえられていました。白勢家は、江戸時代の文政、天保年間は、毎年、飢饉対策の御用金と米を求められ、10年間に、同家の小作料収入2年分に当たる7500石を提供しました。市島家は、江戸城普請や長州征伐などで合計1万両を超える資金を幕府に用立てました。伊藤家でも、文政11年(1828)の三条大地震を始め自然災害や火事の際に、御用金を課せられ、嘉永7年(1854)には、異国船渡来の名目で300両の御用金を支払っています。
 そして、小作人・村民の雇用創出のために、こぞって自宅の建築を行っています。市島家は、天保年間に邸宅「継志園(現存せず)」を、田巻家は大正初期に「椿寿荘」を、斉藤家は昭和初期に邸宅(現・孝順寺)を建築。いずれも、予算や期間に上限を設けず、小作人・村民が十分な収入を得られるように、莫大な資金をかけていました。
「大地主として広大な所有地を管理し、多角化した事業を展開するのも、一家だけではできないこと。人材を育て、そうした人の協力を得て、家と事業を存続させていく。小作人あっての地主ですから、地域のためにできることに力を惜しまなかったのでしょう」と、神田さん。
 

 

 豪華で重厚な建築様式、贅を尽くした意匠や装飾には、大地主の思いが宿っていました。それぞれの家の歴史に触れてから豪農の館を訪ねると、豪華さの奥から、温かな表情が見えてくるかもしれません。
  

 


■ 取材協力
神田勝郎さん/一般財団法人 北方文化博物館 館長

■孝順寺
阿賀野市保田4626-1
・12月11日~3月31日 閉館
・お盆とその前後休館
※見学は事前申込不要。維持管理のため1名様300円の御懇志をお願いしています。

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