file-127 雪の下に人情あり、人を結んできた「雁木(がんぎ)」(前編)

  

最深積雪量3メートルを超える まちのライフライン

 雁木は、新潟県を中心に北陸や東北地方の雪深い市街地に造られました。しかし明治以降は、都市整備や車の増加により、急激に姿を消しています。そのような中、上越市高田地区には多くの雁木が残り、総延長12.8キロメートルは全国一の長さです。

高田が、雁木を守る理由

助け合いの心が、雁木になった

町家

雁木のある商家は町家造りで間口が狭く奥行きがある。長い家では70メートル近い。

「古い家のない町は、思い出のない人間と同じ。画家の東山魁夷さんの言葉だそうですが、高田に雁木が残っていて、本当に良かった」と言うのは、一般社団法人雁木のまち再生代表理事の関由有子さんです。
 明治以降、全国から雁木が消えゆく中で、どうしてこんなに残っているのか。まずは、高田の歴史をさぐってみましょう。

 

高田城下の地図

城を中心とした大規模な都市整備は、いまでいう国家事業。陣頭指揮を取ったのは仙台藩初代藩主の伊達政宗だった/元文2年「高田城下図」上越市立高田図書館所蔵

 江戸時代初頭の慶長19年(1614)、徳川家康の六男、松平忠輝公によって高田が整備されました。江戸幕府が最も恐れていたのは地方の反乱です。中でも、現在の石川県にあった加賀藩はたいへんな資金力があり、幕府は動きを監視しようと、それまで低湿地であった現在の高田市街地に城と町を置いたのです。
 城下町の整備以前は、北陸から新潟方面に通じる道がありましたが、直江津の関川河口に架かる橋を外して通行を遮断し、必ず高田の城下を通るように迂回(うかい)させました。また、主要な三街道を結ぶ結節点とします。こうして高田は、城下町でありながら、宿場町となり、旅人がお金を落とす商業地に発展しました。

 

互い違いになっている雁木

雁木自体も各家がお金を出して造っているので、よく見ると一つひとつが違う。古い家の方が雁木が低くなっている。

 高田が整備された当初は、雁木はなかったようですが、その後に起きた大地震の復興で、冬でも通れるようにと、町家が立ち並ぶ通りに雁木ができました。「雁木が普通のアーケードと大きく違うのは、そこが個人の敷地だということ。一軒一軒の道路沿いの土地が、家屋を少し下げて建てることで結ばれて、歩行路になっている。助け合う心が、かたちになったものが雁木です」と関さんは言います。土地だけでなく、雁木自体も家屋の一部。そのために、高さやカタチもまちまちです。

 

雁木がなければ、生きられなかった高田

関さん

一級建築士。建築家の目線から高田の歴史的建造物を活かしたまちづくり活動に関わっている。

 加賀藩のお目付役となる高田藩主。徳川家の親藩と譜代の大名が配置されました。何といっても雪国なので、行きたくない藩主も多く、「左遷」のイメージもあったのでしょう。身内の勢力を制するために、見せしめのようなお取りつぶしや移封もありました。高田藩主は17人が務め、家系が変わるとお付きの職人や商人も、ともに高田に入りました。しかし、お取りつぶしにあえば移る場所もないので、高田で生きることになります。

 

大型の商家

19世紀中頃に建てられた大型の商家。雁木は古い形式といわれる「造り込み式」

吹き抜け

高田でも特に大きな茶の間の吹き抜け空間や、多くの職人と使用人が住み込みで働いていた暮らしを垣間見ることができる。

 職人や商人が生計を立てるには、どんなに雪が降っても、商売を成り立たせるための通りが必要です。地域の克雪は、個人の死活問題でもあり、人々の間で助け合いの精神が自然と育まれていきました。「外国の方は雁木の仕組みを不思議に感じるようですが、高田の人たちは、昔から結束が強かった。明治初期には雁木取り壊し令もあり、他のまちでは少なくなりましたが、高田は雁木がなければ生きられなかった。大切なことは、まちの姿から見えてきます」と関さんは語ります。

 

残し、伝えたいのは、雁木の下の優しい気持ち

豪雪

平成に入って少雪傾向にあるが、最深積雪量が4メートル近くになる年もあった。

 その昔、加賀藩に向かう飛脚が高田に入りましたが、あるはずの町がなく、ただただ雪原が広がっていました。その年は豪雪で、まち全体が雪に埋もれていたのです。ようやく町をみつけた飛脚は、次に来る人のために「この下に高田あり」の札を立てました。
 しかし、そんな雪の下には信じられないほど快適で、温かい営みがあったのです。雁木のおかげで下の通りは確保されます。車がなかった時代は、屋根の雪を現在でいう車道に落とし、それが2階ほどの高さになったら、道路のこちらと向こうをトンネルでつなげました。雁木のある商家は町家造りなので、表玄関から裏口へ抜ける土間を備え、それらも住人同士が使い合うので意外にも縦横無尽の行き来があったのです。

 

高野さん

雪の下の町で、母親たちは冬も軽装で近所を行き来して、持ち回りのお茶会をしていた。そのせいか、高田はお裾分けが盛ん。雁木がつながっていたところは、自然と心もつながっていた。

「子どものころは、そんな生活でした」と言うのは、越後高田雁木ねっとわーく会長の高野恒男さんです。「雁木を通って小学校に行きました。急に雨が降っても濡れないから、傘を持って行った記憶がありません。冬になると雁木の下でコマを回したり、走ったり、パッチをしたり。女の子は縄跳びをしていましたね。雪を固めて石畳にぶつけ合い、崩れた方が負けとか、つららを刀代わりにチャンバラをするとか。車道はそりが通るので、いたずらをして下のトンネルから落とし穴を作ったら、すとんと落ちてきた(笑)。今はできないけれど、忘れられない。私くらいの年代は、雁木にはいっぱい思い出がある」

 

歴博(高田の雁木と雪下ろしを再現)

新潟県立歴史博物館(長岡市)では、昭和30年代初めの高田(現上越市)の雁木通りを再現した風景を常設展示しています。

 

雁木

雁木の下は、昔は石畳だった。

 しかし、旧市街の急速な衰退とともに、守ることが難しくなってきました。雁木がない家も増えて歯抜けのようになり、そこは冬になると雪が積もります。雁木は現在も通学路になっていますが、積もった雪を登るのも、避けて車道に出るのも危ない。1軒でも雁木がなくなると、通りが断たれてしまうのです。
「雁木は、私有地でありながら公共性の方が強い。助け合い、譲り合い、見守り合いがぎゅっと凝縮されている。こんなにも日本人の優しさが詰まっている素晴らしいものはなく、世界遺産にしたいくらいです。ただ、古いものだから残すのではなく、雁木の下を通る人に優しい気持ちを残したい」

 

高野さん

高野さんと通りを歩くと見えないものが見えてくる。直線ではない道路、不自然なクランク。高田城下ができたころの地図と現代の地図を重ねてもほとんど変わらず、その違いの少なさは全国一といわれる。雁木があったから、そのまちなみが守られてきたのだろう。

 そんな思いから、高野さんはさまざまな活動をしてきました。「雁木サミットin上越」の開催や写真コンテスト、大根や柿を吊した雁木だからできる景色作り、あんどんの設置など、雁木を守るためなら何でもいいから、まずはやってみようと行動に移します。
「おらのとこ(地域)は、何もねえと言う人がいますが、それが一番悪い。他にはないものを自慢して、誇りを持つこと。それがみんなの元気になります。私は雪国の生活文化を育ててくれた、世界のどこにもない高田の雁木をみんなに見てもらいたい。これだけ愛着のある雁木だから、高田の人たちは明治の取り壊し令に従わなかった。先人が試行錯誤しながら残してきた雁木を、いま私たちが使わせてもらっている。これからも雁木はいいねと言われるように活動を続けたい」

 

はしご

屋根の雪下ろしが欠かせない高田では、新築するとはしごも一緒に設置する。

トヨ

雁木の下には雪下ろしに使う「トヨ(スベリ)」がしまわれている。滑り台のように雪を滑らせて効率よく運ぶ。

 先人が雁木に見出した普遍の答えは、助け合いの優しい気持ち。どうか100年先も雁木の下で、同じ気持ちを感じられますように。

 

 後編では、高田の雁木を研究する新潟大学准教授の黒野弘靖さん、阿賀町観光ガイドの薄友一(うすき ともいち)さん、牧之通り(ぼくしどおり)組合組合長の中嶋成夫(なかじま しげお)さんから、雁木への思いや地域の取り組みを伺います。

 

掲載日:2019/3/22

 


■ 取材協力
関 由有子さん/一般社団法人 雁木のまち再生 代表理事
髙野 恒男さん/越後高田・雁木ねっとわーく 会長


■資料提供
上越市文化振興課
上越市立公文書センター

後編 → 雪の下に人情あり、人を結んできた「雁木(がんぎ)」(後編)
「急速に失われてゆく雁木を守れ」

前の記事
一覧へ戻る
次の記事