file-151 日常の美~新潟の焼き物〜(前編)

  

北前船が運んだ焼酎徳利

 縄文時代に火焔型土器を生み出して以来、長い焼き物の歴史を持つ新潟県。江戸末期から明治20年代にかけて、ある焼き物が爆発的に生産量を伸ばしていました。それが「焼酎徳利」です。米と土と北前船という3つの要素が揃って生まれた、新潟独自の焼き物です。

新潟では幻の存在

角田山麓と五頭山麓で生産

焼酎徳利

「用の美」という言葉が似合う、シンプルにして無駄のない形。口は木栓で閉じた上から、石膏で固める二重構造だったのだそう。

 高さは20数センチ、ぽってりと膨らんだ胴の上に短い首を持ち、グレーや緑、褐色など落ち着いた色合いの釉薬(ゆうやく)で内側も外側もコーティングされた陶製の瓶。ものによって、大きさやフォルム、色合いに違いはありますが、安定感と素朴な風合いは共通しています。それが、新潟産の焼酎徳利です。江戸末期から明治20年代にかけて生産された、新潟独自の焼き物について、新潟県立歴史博物館学芸員の西田泰民さんに伺いました。
 「新潟と焼き物の産地というイメージはあまり結びつかないと思いますが、明治時代の産業育成の機運の中、県内には約80カ所もの窯(かま)が生まれ、日常の器を盛んに生産していました。焼酎徳利もその一つです」

 

内側

内側にも釉薬を掛けることで、焼酎が浸透して漏れ出すのを防いでいた。

西田さん

「松郷屋の窯場跡地を調査しましたが、窯のあったくぼみが残っているだけでした」/西田泰民さん

 焼酎徳利の生産は、まず角田山南東の松郷屋(現・新潟市西蒲区)で始まり、需要の拡大に伴って五頭山西側の笹神村(現・阿賀野市)でも作られるようになりました。最盛期には、松郷屋で30万本、笹神村で150万本、合わせて180万本もの年間生産量を誇り、両地域は窯業(ようぎょう)で大いに盛り上がりました。
 ところが、それほど大量に生産された焼酎徳利なのに、新潟ではなじみがありません。発見されるのは、秋田、青森、そして北海道です。なぜなら焼酎徳利は、焼酎を北海道へ運ぶ容器として生産され、北前船で運ばれていったからです。

 

仕掛けたのは誰だ?

北前船

焼酎徳利の単位は、8本入で一箇(か)。新潟湊からの出荷は二十五箇区切りだったようで、百箇だとなんと800本。

売買仕切目録

売買のやり取りを記録した「売買仕切目録」。小樽港の商人が小澤家から、焼酎を百箇買い取ったことが記載されている。

若崎さん

「様々な条件・環境が揃ったから実現した製品だったと推察しますが、それにしても個別容器にして焼酎を販売した新潟商人の発想力、企画力、先見性には驚かされます」/若崎敦朗さん

 焼酎徳利は、焼酎を入れるための使い捨ての容器、いわばペットボトルのようなものだったのです。そして、中身の焼酎は沼垂町(現・新潟市中央区)の酒蔵が造った米焼酎でした。しかし、新潟といえば酒どころ。それなのに、なぜ焼酎だったのでしょう。旧小澤家住宅・館長代理の若崎敦朗さんは、「そこには需要に応えようとする、新潟商人の戦略があった」と考えています。
 当時の北海道では酒が生産できず、本州からの輸送が頼み。一方、ニシン漁が盛んで多くの漁師が働いており、身体を温めるため、また労働後の楽しみとして『酒』が求められていました。つまり、ターゲットが欲していたのは、日本酒よりも安価で、手軽に飲める酒だったのです。
 「新潟の酒蔵には、焼酎の原料になる酒粕があり、新潟湊には、北海道への輸送手段となる北前船がありました。問題はどうやって運ぶかです。大きな樽やかめでは、北海道で船から降ろした後の輸送が難しく、冬期には中身が凍ってしまうかもしれません。現地での取引においても、販売ロットが小さくなれば小売店でも取り扱いやすくなります。そこで、陶器の少量容器を作ることにしたのでしょう。酒は量り売りが一般的な時代に、使い捨ての少量容器での販売を考案した発想力や独創性は、注目に値します。北前船の荷として、新潟独自の有力な商品にしたいという思いが感じられますね」と若崎さん。

 

アイヌ酋長

明治初期のアイヌ酋長(しゅうちょう)盛装の図。祭器と共に焼酎徳利が置かれており、アイヌの祭礼に欠かせない存在だったことが分かる。

 こうして、焼酎徳利によって、沼垂産の焼酎が東北、北海道、さらにサハリン、千島列島へ運ばれます。漁師だけでなく、アイヌの人々の生活や文化へも浸透していきました。
 北前船の船頭や廻船問屋の情報力と、酒蔵の行動力がヒット作を生み出したのです。

 

そして、姿を消した

窯印

焼酎徳利には、製造した窯元が分かる「窯印」が刻まれているものもある。

太丘焼

展覧会では焼酎徳利の他に、明治期に現・新潟市北区で生産されていた「太丘焼(たいきゅうやき)」と呼ばれる陶磁器の展示も行われる。

 焼酎徳利の人気は長くは続きませんでした。明治20年代後半になると、北海道での焼酎生産の開始を受けて、新潟産の焼酎は需要が低迷。ガラス瓶が普及し始めたことも影響して、明治35年(1905)頃には焼酎徳利の生産は終息に向かったと言われています。
 使い捨てが前提なので、手を掛けずに作られた焼酎徳利ですが、二つと同じものがなく、素朴だからこその味わい、実用に徹した潔さ、人の手のぬくもりが感じられます。地元では雑器扱いで良い評価はされず、生産量に比べると現存する量があまりに目立たない、知る人ぞ知る存在でした。その焼酎徳利に光を当てる展覧会が、新潟県立歴史博物館で開催されます。

 

 角田山麓の松郷屋では、焼酎徳利に変わり、すり鉢やかめ、七輪などの日常の器が作られましたが、鉄道の発展に伴い全国から陶器が入ってくるようになり、昭和23年(1948)に最後の窯が閉じました。もう一つの産地、五頭山麓の笹神村周辺では、焼酎徳利作りの系譜を継ぎ、今も焼き物の生産が続いています。

 

焼酎徳利集合

 

 後編では、五頭山麓の庵地(あんち)地区で作られている、「安田瓦」と日常の器「庵地焼」を紹介します。

 

掲載日:2022/1/11

 


■ 取材協力
西田泰民さん/新潟県立歴史博物館 学芸員
若崎敦朗さん/旧小澤家住宅 館長代理


■ 資料提供
笹川太郎さん/新潟ハイカラ文庫主宰


■ info
新潟県立歴史博物館
冬季テーマ展示「やきもの産地・新潟」(1/15~3/6)
小説「やきもの産地・新潟」

 

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後編 → file-151 日常の美~新潟の焼き物〜(後編)
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